昨日は愛妻の日だったらしい。もちろんなーんにもないただの1日だった、日曜日だったけど。
そもそもごはんは女が作るものと思い込んでいるらしく、今日は俺が作るかー?なんて日はない。帰宅が遅くなりひとりで食卓につこうとするこどものすぐ近くで自分はコーヒー飲んでいるくせに、わざわざこちらの方を見て私に向かって「ごはんの準備くらいしてやれば?」と言う。
は!?
ごはんの準備はできてるが!?
説明しよう!
この場合の「ごはんの準備」とは白米をお茶碗によそって、味噌汁をお椀によそうこと。
そう、白米を炊飯ジャーからよそって、味噌汁をよそう、ただそれだけの事。たかが10秒もかからない事なのに・・・学校給食(配膳係)を経験したことがある人なら誰しもが出来るそんな単純なことなのに!
それでも私がやらなきゃいけないらしい
わざわざ立ち上がってよろよろ歩いてそれをする為に向かえというのだ。現地にいるお前がやればいいだけのことなのに。わざわざ遠地にいる私を現地に呼び出してまでも私がやらねばならない事らしい。
NOT男女平等すんな!
なぜにお前がやらんのだ?(怒)と思うけど、日本語が伝わりにくい人だから関わらない方が吉。そう思ってスルーすることが多い。
だって疲れるんだもの。違う人種の人に理解してもらおうだなんておこがましいでしょ?交わらないでお互いスルーしていた方が平和というもんだ。と言えるくらいまできてしまった。
私の実家は責任感がとても強い立派でなければいけない系。人様に笑われる事は御法度なのだ。だからよく怒られたし叱られたし注意や非難ばかりされていた。そしてそれは改善までさせらてようやく一時的ではあるが解決という形になっていた。矯正という強制。悪いことをしたら改善するまでずっどこまでもと言われ続け直される。だから悪いことをした人はもう絶対悪いことをしなくなるんだと思い込んでいた。正しいことを言う人が正しくて(善)、言われる人が間違っているんだと疑いもしなかった。
でも酒癖の悪い男には20年という歳月言い続けたがまったく効かなかった。借金と不倫を何度も何度も繰り返す元義理姉にも効かなかった。
わたしたちは正しい。だってわたしたちは間違っていないもの。
立派でなければいけない。人様に笑われるようなことをしてはいけない。この定義はわたしの血縁がらみ限定のものなのに世界中での一般認識かのように思い込みすぎていたのが間違いの元だったのだと思う。VS酒男に対してもVS借金&不倫女に対しても、私達は刑事と犯人かのようにどこまでもののしっていがみ合ってそうして決裂。
わたしたちは正義が強すぎた。間違いは許されない家で育ったから間違った人をはどうしても許せなかった。間違っていない私達がこれほどまでに傷つけられるだなんて間違っている!と思うことで更に自分自身が傷ついていった。
そして消えない憎しみという感情。これだけは絶対に消えないと同時にそれに費やした時間分だけの虚しさが愛情というものをどんどん消していく。だから今はヤツに対する愛情なんてまったくない。
2人で協力して生きていこうねと思っていたのに、気づいたら何するでもわたし1人だけだった。困ってるときも全部1人でだった。そんで気づいてしまった。お金以外で困ることはもう何もないのでは?だって私1人で全部やっている。
人なんてそう簡単には変わらない。でも女は家事でも育児でも仕事でもガマンにガマンを重ね自分の感情を抑えて思うことも飲み込んでそうやって生きている。変わりたくなくても変わるしかないから経験値があがっていくんだと思う。
時間の無駄だわと思う人をは相手にしない方がいい。そんなことしてる暇あればもっと有意義で楽しいことに時間を使えばよかったなと後悔しちゃうから。